先輩が飲みに行こうと僕を誘う。先輩と僕のほかに、知り合いの女の子を二人呼ぶという。先輩は、ささやかな合コンを企てていた。 僕は居酒屋だの、飲み会だの、合コンだの、そんな単語を聞いただけで頭痛を催す性質なので、躊躇したけれど、先輩にはいくぶん良くしてもらっているし、口の利きやすい稀な兄貴なので、社会勉強だとおもって付き合うことにした。先輩は穏やかだが無邪気なところがあった。

 日曜の夜、駅の南口で四人はよそよそしく落ち合った。そうして挨拶もそこそこに駅前の居酒屋へ入った。先輩は意気揚々と自分で予約した座席へ入っていく。椅子とテーブルの隙間は狭い。先輩は壁に手をついてその隙間を奥へ渡る。しかし壁だとおもったのは隣席との境界に吊られた、すだれだった。先輩は手をつくなり勢いよくすだれをむしり取る形になった。すだれの裏から驚いた客の顔がいくつも現れた。先輩はペコペコしながらすだれを元に戻そうとするが、支柱がうまく引っかからず手こずっている。僕たち三人は黙ってそれを見守っていた。さすが先輩。掴みは上々である。ひとつ社会勉強になった。でもこの役目は先輩に一任しようとおもう。

 ほどよく空気の凍り付いたところで、傾いたすだれを背景に乾杯をした。僕と先輩が並んで座り、女性二人と対面する形になった。左の女の子は背が高くて寡黙な子である。右の女の子は散らかった感じのよく喋る子だ。友達同士のようである。先輩はひとりで浮かれた様子だった。 おしゃべりな右の子が主軸となって、歓談はすすんだ。左の子はあまり口をひらかない。途中、先輩がお手洗いに立った。会話が途切れた。僕はあいにく雑談などという高度な技能は有していない。潮の引いていくように心細い沈黙が流れた。こういう時はすだれをむしり取ればいいのだろうか。

 僕の携帯電話がメールを受信した。先輩からだった。救難信号かとおもって慌ててひらいてみると、 「右の子がいいか、左の子がいいか。」 というような質問が届いていた。先輩はこういった男女の社交の場での駆け引きのようなものを気取って楽しんでいるらしい。なるほど、こうやって楽しむのか。またひとつ勉強になった。僕は携帯をそっと閉じてポケットへしまった。 先輩はお手洗いから戻ると何食わぬ顔で歓談を続けた。右の子はとりとめのない話をしている。左の子は澄ましている。僕は張り子の虎のように相槌をうっている。そのうち先輩はまたお手洗いへ消える。そうして再びメールをよこした。 「右の子がいいか、左の子がいいか。」 僕はしずかに携帯を閉じた。干潮の侘しさを取り繕うように、左の子も携帯電話をいじりはじめている。右の子も携帯電話を見ている。先輩は帰ってこない。やっぱりこういうときは、すだれをむしり取るのだろうか。こんど先輩に聞いてみようとおもった。

 またメール受信のバイブレーションが振動した。僕が携帯をひらこうとしたとき、同時に右の子が口をひらいた。 「□□さん、知ってる?」 それは高校の同級生で、おなじクラスになったこともある女子だった。知っていると言うと、右子は□□さんがいかに性格の悪い女であるかということを力説しはじめた。男子の前では猫をかぶっているが、裏の顔は性悪だという。その具体例を僕に披露してくれた。僕は半分お愛想に、半分は本心で、感嘆の意を表して聞き入った。右子の弁舌に熱が入る。□□さんに親でも殺されたのだろうか。携帯のシグナルが手の中でさびしく点滅している。

 その時、斜向かいの団体席がにわかに騒然としだした。若い女の子のグループである。女の子たちは一様にテーブルの下を覗き込んでいる。そうして、そっちへ行ったの、あっちへ行ったのと、鋭い声が飛び交っている。ゴキブリが出たようだ。 店長が殺虫剤を片手に飛んできた。そうして靴で踏み潰そうと狭い座席をゴキブリと追いかけっこしている。それはブルース・リーがステップ踏んでいるようにも見えた。女の子たちはテーブルを押しのけて逃げまどう。ゴキブリが方向転換するたびに黄色い悲鳴が上がった。ブルース・リーの細やかな蹴りが地面を叩いてまわる。考えるな、感じろと、僕は念じた。左子はその様子を流し目でクールに一瞥するとまた携帯へ目を落とした。右子はまだ管を巻いている。なんだかさっきより顔が大きくなっている。トイレに立てこもった先輩からメールがくる。 「右の子がいいか、左の子がいいか。」

 かくして駅前のきらびやかな歓楽街に日曜の夜は更けていくのであった。