カラムーチョ
その日家族は出かけていて留守だった。小学生の僕にとって親のいない家というのは何ともいえない開放感があった。何をして過ごそうかとうきうきする。その日の僕には一つやりたいことがあった。それはポテトチップスを自分の部屋で食べることだった。お菓子なんていうものは親が食卓へ出してくれるものを、家族を交えて食べるしか機会のない子供にとって、プライベート空間で独り占めする贅沢はまたとないご褒美だった。
近所のコンビニエンスストアへ自転車を走らせた。コンビニで自分用のおやつを仕入れるという非日常的行為にも、胸が高鳴った。その時買ったのは、今でも忘れない、カラムーチョだった。黒い背景に唐辛子まみれの真っ赤なスティック状のポテトが印刷され、口をすぼめたお婆さんのイラストが添えられているパッケージである。
家へ飛んで帰って誰もいないしんとした食卓で、いつもみんなで食べる時にそうするように、袋の背中をぱっくりと割って開く。この観音開きの大きな口にいつもなら他人の手が伸びてくるけれど、今日は僕一人でぜんぶ食べるのだ。辛いスティック状のポテチが山盛りに固まっているのは地獄の針山のようである。唐辛子のパウダーがきらきらと輝いて、唾液が滲み出る。
僕はカラムーチョを両手に戴き、自分の部屋へ向かって階段を駆け上がった。胸が躍る。足も踊る。いつもより軽快に上る。いつもより高く跳びあがる。足の運びの寸法を見誤る。段の縁につま先をぶつける。目の前の風景がガクンと垂直に振れて反射的に両手をつく。全開に口をあけたカラムーチョは、跳躍力と推進力と逃れようのない引力との掛け合わせによって勢いよく宙へ飛び出し、北斎の「神奈川沖浪裏」の大浪を思わせる豪快な弧を描いて、階段を赤富士のごとく鮮やかな紅に染め上げた。
こうして僕の夢は終わった。その後の記憶はない。しんとした階段に、不恰好に這いつくばったまま呆然としていたこと、その時目に映った袋の中のわずかな生き残りがやっぱり鮮やかに赤かったことが、おぼろげに瞼の裏へ浮かぶだけである。