真紅の桃
「来たぞーー。」
仲間に危急を知らせる鬼の声が響いた。
「人間が襲ってくるぞーー。」
山の中腹にあるしずかな鬼の村が、にわかに物々しい怒声と足音にあふれた。
百を超える人間の影が森の木々を縫って黒い波のように村へ押し寄せてくる。人間の手には鎌やまさかりやクワが躍っている。抜き身の刀をひらめかす者もいた。
山を一つ隔てたふもとの人里では、たびたび鬼が悪さをした。鬼は畑を荒らし、洗濯物を切り刻み、釜の中身を食らった。村の大きな悩みだった。集会を繰り返しても良い手だては見つからなかった。
ある日、村人が畑から戻ると、座敷に紫色の大きな背中が見えた。村人はぎょっとした。紫鬼は箪笥に覆いかぶさるようにして着物をあさっていた。おりしも囲炉裏のそばには赤子が小さな寝息をたてていた。
「あっ。」と村人がたまげると、鬼は驚いて逃げ出した。その拍子に赤子を蹴飛ばした。赤子は土間へ落ちて頭を打って死んだ。
積年の恨みの上へ子宝をも奪われた村の男たちの怒りは頂点に達した。はやる心を抑え、夜な夜な集会をひらいては蝋燭の薄明りの中で鬼退治の算段を立てた。
「鬼たちを追い出せ。」
「鬼たちを滅ぼせ。」
「鬼は皆殺しだ。」
鬼の村に迫る人間たちの目は復讐の色に燃えていた。
しかし彼らは知らないのである。悪さを働いていたのがたった一匹の鬼であることを。
鬼の村でもその紫鬼は厄介者だった。人間の村でするのと同じことを、自分の村でもした。鬼たちは紫鬼を村から追放した。
ところが人里での紫鬼の所業を知ると、このままでは自分たちの身にも災難がふりかかると考え、鬼たちは紫鬼を連れ戻すことに決めた。そうして数人の鬼が里へおりていって、紫鬼の現れたところをつかまえた。暴れる紫鬼は大きな麻袋に押し込められて村へ担ぎ込まれた。
紫鬼は以降、村の檻に収監された。檻はそのためだけに特別にこしらえたのである。
ふもとの里ではその頃、紫鬼が担がれていったのを見かけた村人の話に尾ひれがついて広まり、鬼たちが村の娘をさらっていったという噂が立った。男たちは荒々しく鍬や鎌の刃を研いだ。
血走った人間の目には赤鬼も青鬼もなかった。赤と青とが混ざってぜんぶが紫鬼に見えた。憎き鬼たちを成敗せんと武器をふりあげ雄叫びを上げ、黒い波は、村になだれ込んだ。
「やむを得ない。男衆は武器をとって迎えうて。老人と女と子供はなるべく山奥へ逃げろ。」
鬼の村長はそう叫ぶと薪を一本ひろって駆けだした。およそ千年にわたって争いごとの起こらなかったこの村では、もとより武具など存在しなかったのである。鬼には鋭い爪があったが、木へよじ登ったり野菜や果物を切るために発達したそれを、戦闘に利用するなど思いもよらなかった。鬼は動物の肉すら食さなかった。
村の男鬼たちはめいめいにザルやまな板や漬物石などを手に取って人間を迎えたが、たちまち黒い影に取り囲まれて惨殺された。
年寄りや女たちは散り散りに山へ逃げた。紫鬼は騒乱にまぎれて檻を脱し、落ちていた人間の衣をはおって皆とは反対の人里のほうへ立ち去った。
鬼の若い娘が朽ち葉を踏んで小走りに逃げている。胸には生まれたばかりの赤子を抱えていた。
右手から男鬼の叫び声がひびいた。左手から女鬼の悲鳴がこだました。人間に追いつかれた鬼は次々と切り伏せられていった。赤子を抱えた母鬼は恐怖で足がすくんだ。しかし桃のような子供の頬を見つめると、気持ちを奮い立たせて先を急いだ。
「いるぞーー。」
人間の声が母鬼の背中に迫った。
母鬼はとっさに脇の畑へ飛び込んだ。隠れ場所をさがしてあたりを見回すと、甘い香を放つ大小さまざまの果実が生っていた。桃畑だった。ひときわ大きな桃が母鬼の目にとびこんできた。瞬間、彼女は鋭い爪をひらめかした。大きな桃は地面へ落ちてすぱっと真っ二つに割れた。断面はきらきらと光って果汁が盛り上がり、ぷうんと甘い香が立った。母鬼は手早く種を抜いてその空洞へ我が子を収めるとふたたび二つの桃を合わせた。新鮮な切り口はひたと吸い付いて元通りの姿に戻った。桃を抱えて川辺に走る。荒々しい川瀬の前に来ると、母鬼は桃をいとおしそうに撫でた。
「ぼうや、ごめんなさいね。きっとよいかたが拾ってくださいます。どうかおしあわせに。どうかおしあわせに。」
桃が真紅に染まった。
自分の血だった。
背中に一太刀を浴びた母鬼は振りかえる間もなく突っ伏して絶命した。桃がごろんと前に転がった。
黒い影が五六人立っていた。
「こりゃでけぇ桃だな。」
「やっこさん桃に話しかけてたな。」
「気でも振れたか。」
「こんなでかい桃にかぶりついて腹いっぱい食うのが夢だったんだよ。」
いやらしい目をした小太りの男が言った。
それを聞いて、
「ひとつ、腹ごしらえだ。」
真ん中の男が血のしたたる刀をふたたびふりかざした。
「鬼の血がついた桃なんか食えるか。」
脇の男が草鞋で真っ赤な桃を蹴った。
桃はどぶんと川へ落ちると、荒瀬に揉まれながらみるみる遠ざかっていった。
死んだ母鬼の見開いた目がいつまでもそれを見ていた。