赤鉛筆
清吉は炬燵で向かい合った叔父さんの顔をじっと見つめている。叔父さんの手元には数枚の原稿紙。清吉がコンクールのために好きなテレビも見ずに書き上げた労作である。叔父さんの目がゆっくりと行をなぞっている。叔母さんの出してくれたお茶の湯気がうっすらと立ち上っている。仏壇の上には知らない老人の写真が何枚も並んでいた。
清吉は作文が得意だった。父が読書家だったから、生まれた時から本に囲まれて育った。それで自然と大人びた文章が板につき、国語の時間に作文を書けば誰よりも早く筆を置いて、その達者な文章に先生は目を丸くした。
六年生のとき、作文のコンクールがあった。全国の小学校から作文を集めて表彰する大きな催事であった。授業の一環として六年生は全員が応募することになっていた。
清吉はさっさと作文を仕上げて提出してしまった。そうして国語の時間にみんなが頭を掻き掻き原稿紙に向かっているなか、ひとり落書きをして過ごした。落書きをしながら、華々しい表彰式でメダルを首にかけてもらう想像をした。半年後の栄誉を前借りしてもうひとりで得意になっている。
ほどなく清吉のクラスに東京から転校生がきた。名を彰二郎といった。彰二郎はおかっぱ頭に大きな眼鏡をかけたお坊ちゃんだった。父親は国家公務員で母親は教員だった。彰二郎は体育以外、どの教科もできた。作文も上手かった。理路整然とした文章をするすると書いた。
清吉は新入りに安泰な地位を脅かされ、たちまち彰二郎を敵対視した。クラスでも「どうせ清吉が金賞だっぺ」と言った声に、「おらは彰二郎くんが金賞だとおもう」といった新しい意見が混じり始めた。清吉は、彰二郎の田舎者を見下すような態度が嫌いだった。対抗心を燃やした清吉は先生から原稿紙を取り戻して一から書き直した。
清吉は家でも夕飯を食べ終えるとテレビも見ずに遅くまで原稿紙に向かった。父親の本棚から頻繁に本を借りていく。それを見ていた父親が「叔父さんに見てもらったらどうだ」と勧めた。
読書家の父親の兄もまた文学畑の人間だった。専業の物書きではないが、市井の詩人として文芸誌上でちょっと名の通った才人である。父の勧めを聞くと、清吉はたまにお年玉をくれるだけだった親戚のおじさんに急に親しみが湧いて、頼もしく思えてきた。彰二郎との勝敗が叔父さんの存在にかかっているような気がした。
叔父さんが原稿紙から顔をあげた。
「上手な文章だね。」
清吉の顔がぱっと明るくなる。しかし、
「心には響かないけど。」と続けて言った。
清吉はほころびかけた顔の持っていきどころを失ってぽかんとした。
「六年生でここまで書けるのは驚いたよ。だけど上手に書こうという力みが見えてしまってね。せっかくの良い素材が、調味料の振り過ぎで不味くされているように感じた。」
叔父さんはふたたび原稿紙に目を落として、力強いしずかな声で話した。
「例えば冒頭の“夜陰に溶けた栗の木が庭にじっとうずくまっている。”とあるけど、夜陰に溶けた栗の木がなんで見えているんだい。それから“部屋にはヤカンの音が耳心地よく鳴り響いている。”なんてのも、ヤカンの蒸気は鳴り響くほど大きな音を出さないよね。“耳心地よく”も余計だ。きれいに書こうとして技巧に走った結果、嘘を書いてしまっている。無駄も多い。自分の知っている言葉を存分に発揮する努力は大切だよ。でもね……」
叔父さんは清吉をちらりと見て語気をゆるめた。
「文章というのは素直に書かなくっちゃいけない。かっこつけたり、えらがったり、ほめてもらうために書いたら、たちまち真実は逃げていってしまうよ。誰も嘘を読んで感動はしない。ほんとうの言葉だけが人の心を打つんだ。そしてほんとうの言葉はいつだって簡単なものなんだよ。」
清吉にはだんだんと反発心が芽生えてきた。どうやら叔父さんは自分の作文を否定しているらしい。あれだけ丹精した作文を。僕の努力を知らないんだ。
襖を隔てた隣の部屋では、清吉の両親と叔母さんがのん気に笑い合っている。清吉はその声すら癪に障った。
「とはいえ。」叔父さんは原稿紙をていねいに卓へ置いた。
「せいちゃんの今までの努力は無駄にはならないからね。これからもおおいに書き散らしてください。上手な文を書くには、まず下手な文をたくさん書くことだよ。文章道の道のりは長いからね。まあ、失敗をおそれずにもがいてください。偉そうに言ってるけど、おじさんもしょっちゅう嘘を書いちゃうんだ。」
そう言って叔父さんは笑った。
清吉は褒められているのだか否定されているだかよくわからなくなってきた。
「作文コンクールに出すんだって?」
清吉は、こくりと頷いた。
「作文コンクールなんて言わずに直木賞を目指したらどうだい?あっはっは。」
叔父さんはさも愉快そうに笑った。そうして卓に手をついて立ち上がると箪笥の上の筆立てから赤鉛筆を抜いてきて、
「それじゃあね、いちおう、お土産を渡しておこう。」
そう言って、原稿紙に添削した文を書き込んでくれた。赤鉛筆の先はナイフで不細工に削られていて、持ち手は手垢で真っ黒だ。
「まあ、参考までにね。冒頭だけ。どうだい素っ気ないだろう。せいちゃんの書く文章のほうがよっぽど巧みだ。ところがせいちゃんの文章は嘘で、僕の文章は真実だ。自分が読者ならどっちが嬉しい?筆をふるっていると自分が神様になったような気になるけどね、神様は読者だよ。」
家に帰ってからも清吉は叔父さんへの反発心と依頼心のはざまで揺れていた。そうしてふたたびテレビも見ずに自室に籠もって原稿紙に向かった。清吉の耳には叔父さんの言葉がこだましていた。
「心を澄ますと、言葉は透明に近づいていく。透明なものを見ると、人は涙を流す。」
どういう意味かはわからなかった。
清吉は完成した作文を締め切りの当日に提出した。先生はクラス分の紙束のいちばん上へ清吉の汚れた原稿紙を乗せると、机のうえでとんとんと端を揃えた。ふと冒頭の一文が目に入った。
「窓の外はまっ暗だ。ヤカンがしずかな音を立てている。僕は居間のちゃぶ台の前でひとり……」
先生は一瞬「おや」という顔をしたが、紙束を抱え込むと早足に廊下を渡っていった。
半年後、彰二郎は全国児童作文コンクールで金賞を獲った。
三十年後、清吉は直木賞を受賞した。
授賞式の翌日、清吉は叔父の家を訪ねた。そうして受賞作品『赤鉛筆』を仏壇に供えた。清吉は長いこと手を合わせていた。それは言いたいことがたくさんあったからではなく、叔父にかけるふさわしい言葉が見つからなかったからだ。
「直木賞なんて言わないでさ、ノーベル文学賞でも目指したらどうだい?あっはっは。」
えっと清吉は振り返る。
叔母さんの置いていったお茶がふたつ、炬燵の上で向かい合って濃い湯気を立てていた。
清吉の目から涙が流れた。