月光
月のさす晩には決まって隣の部屋からピアノの音色が聞こえてきた。この古アパートにピアノなど入る訳がないので、男はそれがレコード盤であることは知っていた。聞こえてくるのはいつもベートーヴェンの「月光」だった。
ひと月ほど前に隣の部屋へ越してきたのは若い女だった。男は一度だけ玄関前で隣人とすれちがったことがある。儚い足音をさせて女は黙って通りすぎた。女の通ったあとに、沈丁花に似た美しい芳香が漂った。
雨の降る夜のことだった。雨音を縫って「月光」が聞こえてきた。男は不思議におもった。月のない夜に聞こえるのは初めてのことだった。あまだれに交じる「月光」の旋律は古りた壁越しに深々と響いた。それはいつまでも途切れることがなかった。
夜更けになってアパートの階段をぎしぎしと踏む足音が聞こえた。足音は廊下を伝って玄関の前まで来て、過ぎていった。そうして隣の部屋の戸が閉まる音がした。やがてピアノの音が止んだ。その空白を埋めるように雨足がひときわ強くなった。
次の日、女は越して行った。
それから数日の間は大家が箒を持って隣の部屋を出入りした。男は見知った大家と廊下で立ち話をする折に月の晩の「月光」の話をして聞かせた。大家は少し怪訝そうに相槌をしていたが、不思議なこともあるもんですとお愛想を言って階段を下って行った。
女は耳が聞こえなかった。男は盲人だった。