らかんさか
電車で一時間かけて駅にたどり着くと、すぐにまたバスへ乗り込んだ。車窓の風景はしだいに繁華街から郊外へ、郊外から山里へうつり、だらだら坂の山道を上りはじめた。つり革が大きく揺れる。途中、降りていく小学生が礼儀正しく運転士に挨拶していた。
寺の名前の入った停留所を降りた。私は買ったばかりのデジタルカメラを肩に担ぎなおした。
すぐそこに寺の山門が見えた。山門へ続くささやかな通りの両側に、数えるほどの粗末な店が並んでいる。土産物屋、旅館、飯屋。店先から煙が立ちのぼり、人の頭が泡沫のように漂っている。私は通りを突っ切って寺の門をくぐった。
寺の名を墨書きした看板の前へ、着ぶくれた幼子を立たせ、若い母親がカメラのフラッシュを焚いていた。正月の山気に子供の頬が赤く染まっていた。 門を這入ると音が消えた。境内はひっそりと静まり返っている。ふたたび肩のカメラを担ぎなおす。
テキヤが数人、ドラム缶の火にあたっていた。彼ら以外、人影はない。それへ、遠巻きに最初のシャッターを切った。
振り返ると、漆黒の山門に四角く切り取られて、にぎやかな通りが見える。音のないテレビを見ているようだ。それにもシャッターを切る。
折から空には灰色の雲が立ち込めて境内は陰森としている。
「らかんさか」と石板が建っているところから五百羅漢が壮観に並んでいた。立っているもの、座っているもの、肩を並べて談笑しているもの、こちらに手を挙げて挨拶をしているようなものもある。しんとした林間に透明な歓声が聞こえた。私はかじかんだ指で何度もシャッターボタンを押した。
奥の方へ毛皮を羽織った女と背広の男が石段を登っていくのが見えた。その先は本堂である。私は元来た道を引き返した。
山門まで戻ったとき、雪が降りだした。最初はちらちらとしていたのが、またたく間に激しくなった。黒い山門と、白い雪。景色がモノクロに変わった。ドラム缶の火がいっそう大きくなった。
雪に降りこめられた私は寺の麓のうどん屋へ飛び込んだ。広い土間へ粗末なテーブルを並べた古風な店である。生暖かい空気と鍋の湯気に満ちていた。湯気を透かして、壁に脈絡なく貼られた縁起物が見えた。
がたつく丸椅子をまたいで、うどんを頼んだ。エプロン姿の婆さんが何人もいてくるくる立ち働いている。
お盆から湯気を棚引かせて、私のうどんが運ばれてきた。かじかんだ手を丼で温めてから、熱い汁を飲む。水洟をすすり上げながらうどんを一気にかきこんで、深いため息をひとつ。
店先に土産のふがしがつららのように吊るしてある。そうして土間の一角へ三畳ほどの座敷がしつらえてあり、そこにストーブを焚いて、ふがしの袋詰めをしているのは、亜麻色の髪をした都風の娘である。
カメラレンズの蓋をとってファインダーからにぎにぎしい店を覗くと、今しがた写してきた五百羅漢が二重写しに見えた。店の婆さんがカメラに向かってひょうきんなポーズをとった。
婆さんたちと話をしていると、亜麻色の娘が私のカメラで写してみたいと言った。おっとりとした声だった。カメラを手渡すと、娘は慣れない手つきで私と婆さんにレンズを向けた。婆さんはふざけて妖怪のような顔をつくった。
気がつけばとっぷりと日が暮れていた。いつの間にか婆さんたちが手を回して、地元民の車が私を駅まで運ぶことになっていた。亜麻色の娘を送っていくので、それへ同乗することになった。娘はいつの間にか店からいなくなっていた。
知らないおじさんの運転する軽トラックが来た。車は、自分一人を乗せるとすぐに発進した。暗い山道を下っていく。雪はやんでいた。
私は助手席で揺られながら、娘は周りの大人の判断で別の車に乗せたんだなと思いながら、これから向かう街の灯が遠くに煌めくのを眺めていた。
冬の木立の侘しさもいつしか新緑のみずみずしさへ衣替えをして、H寺の山門は私をはじめてのように迎えた。正月に雪に降りこめられたのが嘘のように、境内の緑はおだやかにさゆらいでいる。
こごえる手で撮影した寺の五百羅漢は、印刷してみればそのほとんどが手ブレ写真だった。一方で、麓のうどん屋の婆さんたちは、写真の中で鮮やかに笑っている。私は正月のあいだ、まともに見られる写真だけを束ねて小さなアルバムを作った。表紙には「□□屋さんへ」と、うどん屋の名を入れた。
山門へつづく小さな通りは、正月に比べて人はまばらだった。しかし五月の明るい光がそそぎ、道だけが活き活きと照り映えている。
うどん屋は営業していた。硝子戸をガラリと引いて、前と同じがたつく丸椅子に座って、うどんを頼んだ。
前は幾人もいた店の婆さんたちも、このときは二三人になってのんびり盆を運んでいた。アルバムに写っているひょうきんな婆さんも姿が見えなった。もちろん、あのとき一言だけ言葉を交わした店の娘もいなかった。
私は見覚えのある婆さんをつかまえて、挨拶をした。婆さんは曖昧な顔で愛想笑いをした。アルバムを渡すと、ページをめくりながら喜んでくれた。が、それもお世辞だったかもしれない。味の薄いうどんを平らげて店を出た。
アルバムを渡して、やっと私の松が明けた気がした。そうして長いだらだら坂をバスに揺られて街へと下った。肩に提げたカメラのレンズは、ついぞ蓋を外すことはなかった。