今日はどうされますか
私の髪を切るのはHさんという女性だった。その美容室には三十年通った。母が通っていた縁で、小学生のときから私も通い始めた。他の店には行ったことがなく、Hさん以外に頼んだこともなかった。
私が店へ行くと、オーナーは客の髪を切りながら肩越しに挨拶をした。Hさんが出て来て私の上着を預かった。ほかに若い従業員が一人か二人、小さな店だった。Hさんはオーナーの奥さんである。気さくで明るい人だった。
いつからか、丸い体をした不器用な青年が店で働きだした。Hさんは私の髪を切りながら、しばしば自身の息子のことを話題にした。美容師を目指しているというその息子が、この丸い青年のことだと知るまでには、しばらくの時間を要した。
息子は気取ったところがなく愛嬌があった。ニット帽を目深にかぶってめずらしく洒落ている日があれば、「今日寝癖ついちゃってて帽子とれないんすよ」と、私に小声で打ち明けたことがある。
そんな彼も、私が十年一日と店に通っているうちに、独立をして自分の店を持った。店を経営しながら、親の店も手伝っていた。私は白髪の増えた頭をHさん預けながら、ときおり鏡越しに、客の話し相手になっている若きオーナーを見かけた。かつての寝癖のついちゃった彼を思い出しながら、その丸い体がすっかり貫禄へと変わった彼が、遠くに見えた。
「今日はどうされますか」
「いつもと同じ感じで」
私の美容室での会話はそれだけだった。そばのゴシップ雑誌をひろって読むともなしに一通りめくり終えると、あとは目をつぶっていた。そうして隣の席で若い従業員と客が話に花を咲かせているのを聞いていた。
その店にも平成の終わりともに自然と足が遠のいた。今は近所の安い店で、短く刈るだけになった。
まだ小学生にもならない頃のことである。母親がHさんにカットをしてもらっているあいだ、私は店の奥の部屋でひとり遊んでいた。そこへ若き日のオーナーが従業員を連れてやって来た。オーナーに促されるまま、私が収納箱の中に入ると、蓋が閉まった。中は真っ暗で身動きもとれないから私はすぐに蓋を押し上げた。蓋は押さえつけられていて動かなかった。外からオーナーの笑い声が聞こえた。