潮騒紀行
伊豆の山道は迷いやすく、長い道のりに感じた。ようやく着いて、宿から言われた駐車場に車を入れた。砂利敷きの更地で看板すら立っていなかった。直前に予約した格安の宿だからしょうがない。
宿はスナックのような小さな看板をひとつ掲げていた。裏はすぐに山で、正面は小道を挟んで港になっていた。周りは閑静な住宅街である。
玄関に入る。受付にもホールにも人影がない。しんとした中に先客の靴が並んでいた。隅のほうへ自分の靴を揃えて受付のベルを鳴らすと、女が出てきて汚い鍵を渡された。
薄暗い階段を忍び足に上って部屋までたどり着く。部屋は六畳一間で小ざっぱりとした和室である。古い便所がついていた。ベランダの窓からは太平洋の海原が見えた。水平線が覆いかぶさってくるようで恐ろしくなった。 宿の食事は取らず、夕方に近場の居酒屋へ入った。店の戸口から首を差し入れて様子を窺うと、女の店員が満席だからすこし待てと言う。店の前に置いてある丸椅子に腰かけて待った。
蚊を払いながら待っていると、向かいの家の周りを住人が巡りだした。少年と少女とその父親らしき男が、懐中電灯で地面を照らしながら行ったり来たりしている。誰も何も喋らない。
待ちくたびれて店の中をガラス越しに覗くと、空いている席がちらほら見られた。もう一度戸口に首を突っ込むと、さっきの女が、はっとしたような顔でこちらを見た。まだ空きませんかと問うと、女は初対面のように自分を扱って奥へ通した。
座敷の小さな卓で注文する。菊正宗を手酌して天ぷらを食べた。入口の脇だから、そばを店員がひっきりなしに行き交う。三人の会社員が来て、隣の席で仕事の話をはじめた。厨房からおばさんの高笑いがする。
店を出るとき、さっきの女が白々しいお愛想で送り出した。
向かいの住人は居なくなっていた。
宿に戻って浴衣に着替えて浴場へ向かった。裾を引きずって湿った暗い廊下を行くと、濡れ髪の若い女と行き違った。すれ違うとき女の細い目に睨まれた。
浴室は狭かった。浴槽の湯は熱すぎてとても入れない。水をどぶどぶ足して冷ました。窮屈なベランダに小さな木の桶が据えてある。それが露天風呂だ。膝を抱えて浸かった。目の前に高架線が走っている。ときおり電車が通過する。そのたびに鼻まで湯に沈めて通りすぎるのを待った。
部屋に戻って布団を敷く。窓の外の暗闇に色とりどりの光が浮いていた。防波堤の釣り人たちのライトだった。赤や緑や黄色の光が蛍のようにゆらめいていた。冷たいシーツに横たわり潮騒に耳を澄ませているとじきに眠りについた。
目が覚めると、ちょうど水平線に太陽がのぞいたときだった。それはみるみる持ち上がり、力強い光線を部屋の中へ注ぎこんだ。そうしてあっという間に宙へ浮いて、弱々しい青色の空に貼りつくと、白けた朝になった。防波堤には釣人がまだ居る。
テレビをつけると天気予報が映った。見慣れない地形にお天気マークが並んでいた。紋切型の予報の声を聞きながら荷造りをした。テレビの音がどこか遠くから聞こえるようだった。
受付には昨日と同じ女が立っていた。支払いを済ませて、脱いだ時のままになっている靴を履いて宿を出た。女は突っ立ったまま無言でこちらを見ていた。
駐車場の砂利を響かせて車を出す。山道をうねり、平らな市街地へ出て、だらだら坂の続く通りにある工房に着いた。工房に入ると、教室のように広い作業場へ店番が一人いた。休日の校舎のように森閑としている。渡されたエプロンを首にかけて座っていると、車椅子に乗った半身不随の男が現れた。
男は棘のある声で今日の陶芸教室の説明をした。自分が求めていたろくろはなかった。代わりに、粘土板と泥の塊が目の前に置いてある。
車椅子の男は器の作り方を説明しながらときおり冗談めいたことを言う。お愛想に笑うと、男はその笑い方を真似て笑い返して来た。取っ手の作り方を男がお手本にやって見せた。しかし片手しか動かないので自分が介添えをした。 出来上がった器は焼いて自宅へ送ってくれるらしい。
帰り際に店番が、無料のお土産を勧めた。粘土で作った箸置きだった。いろいろな動物をかたどったものが紙箱へ無造作に積んである。まるで片手で作ったようにどれもぞんざいだった。自分はドジョウの箸置きを取った。その顔は車椅子の男にそっくりだった。
礼を言って工房を出る。
「バイバイキーン」
振り返ると車椅子の男がにやにや笑っていた。その声はしんとした工房にかなしく響いた。
そのあと再び車を走らせて、タランチュラやゴキブリの巣を見て、タワシのような手触りのカピバラを撫で、バクがボロボロと糞を落としながら歩くのを眺めた。