覗き穴
私がいっとき暮らしていた家は、古びた木造建てで、昼間でも薄暗い陰気な貸間だった。そうして隣には少し変わった家があった。
その家は敷地の内に古い家屋と新しい家屋が並んで建っていた。古いほうには老人が一人で住み、新しいほうには初老の夫婦が暮らしていた。老人はよく近所を散歩していたので、顔を合わせれば挨拶をするほどの顔見知りになった。
新しい家から古い家のほうへ、女がたびたび通っていた。初老夫婦の妻のほうで、老人の娘らしかった。歪んだ口元から低い粘着質のだみ声を出した。しばしば古い家の中から、その女の怒声が聞こえてきた。老人をいびっていた。老いた父親は、言いたいことがあっても思うように言い返せなかった。
老人の姿をだんだんと見かけなくなった。たまに家の前でぼんやりしていることがあった。こちらが挨拶をしても、あいまいな表情で何か小さく呻くだけだった。女の怒声は続いた。
とんと老人の影を見なくなった。
あるとき救急車が隣の家に来た。敷石を踏み荒らして隊員たちが古い家へ入っていった。私は玄関の覗き穴に顔を押し付けて情報を得ようとした。
まもなく古い家から青いシートに包まれた何かを担架で運び出すのが見えた。そうして救急車は音もなく帰っていった。
次の日から女は古い家を片付け始めた。軒先へみるみる粗大ゴミが積まれていった。玄関には張り紙がしてあった。それはおそらく牛乳配達を断る内容だろうと思った。毎晩夜更けに敷石を鳴らして小走りに牛乳を配達する音が聞こえた。貼り紙のあと、深夜の足音は途絶えた。
救急車が去ってから幾日目かのこと、隣の家から女の泣き咽ぶ声が聞こえてきた。それは宵闇の中でしばらくの時間つづいた。
あの親子の歴史は知る由もない。
新しい家はそのままで、老人の家はほどなく更地になった。