16:43
いつものように夕闇の角を曲がって狭い路地に入った。振り返って車の来ないことを確かめてから反対の路肩へ渡った。と同時に、ベビーカーを押す若い母親が自分の行く手を遮って同じように渡った。母親は肩を怒らせて大股にベビーカーを押していた。髪はくたびれて、てかっていた。彼女のスカートの裾が触れるほどの近くを自分は後をつけている。
諦めてもとの路肩へ戻った。そして脚に力を入れた。自分が地面を強く蹴るほど、女も同じだけ速くなった。次の角の直前で追い抜いて、曲がった。また女が立っていた。
女は小さな犬の首紐を握って佇んでいる。犬が自分に気付いて身を揺らすと、女はそれを脚の間に挟んで押さえつけた。そうして自分に背中を向けた。 右手には監視カメラの青いランプが薄闇に浮かび上がっていた。左手には大きな窓があった。窓の内側で赤いカーテンがひらめいて老婆の顔が覗いた。老婆は見開いた目で手をふった。すぐに隣の影がカーテンを引いて老婆は手をふったまま消えた。
ひっそりとした交差点に出た。自動車が一台過ぎていく。そのあとを大量の車が連なっている。等間隔に並んだ車両の列はカーブの先まで続いていた。 長い列が途切れる。今度は反対車線から行列が流れた。ガソリンの匂う生ぬるい風が吹く。
自転車に乗った少年が自分の横へ止まり信号機のボタンを押した。すぐに信号が変わった。途切れた車の間を渡って、どくだみの葉に腐った室外機が埋もれる路地へ這入った。少年は自転車にまたがったまま前を見据えて動かなかった。
橋の上から老人が川を見ている。手に鎌を持っていた。黒い水に夕明かりがゆれていた。老人は自分を見て鎌を隠した。
印刷所から同じ調子の機械音が続いている。小路の奥からピアノを習う音が聞こえる。突き当たりは西の空で残照が山の端を鮮明に刻んでいる。その黄昏を染める鋭い光が点滅しながら色を変えている。朽ちたトタンの壁に巨大な電飾画面が光線を放っていた。目を細めて見ると画面の中で老婆が笑っていた。 天井まである高い硝子戸は一面が霜で真っ白になっている。濡れた取っ手に指をかけ、勢いをつけて開くと外はすでに夜が更けていた。高いところへ監視カメラの緑色のランプが浮いている。
印刷所の二階に曖昧な灯が漏れているほかは闇の底に沈んでいる。石段を登って堤を横切り向かいの段を下りた。下り口を塞いで若い男女が肩を並べてうずくまっていた。自分は身をよじって女の横を抜けた。男が女の肩を引き寄せて守る仕草をした。
石段のふもとの街灯がタクシーを照らしていた。運転席のドアがあいて男が仁王立ちになると、しぶく音がして股の下へたちまち大きな水溜りが光った。音はそれが自分の背中へ周るまで止まなかった。
血のような赤い葉を垂らした木の前に来ると、巨大な音が辺りに轟いた。それはだんだん迫って来て空一面を覆い尽くすと小さくなって消えた。 自分は走った。赤信号を渡り住宅街を抜け監視カメラの青いランプを過ぎた。階段を駆け上がり鍵を二つあけて玄関を出るとちょうど山の端に夕日が沈む瞬間だった。
解体現場から男達の笑い声が聞こえた。